20世紀初頭、ニューイングランドの田舎町。活動写真がやって来る。銀幕には新たな男の出現に心移りしてしまったメエ・マーシュの姿が映っている(追記)。彼女の運命はどうなるのか。ホテルに設けられた映画館で、ヘレン(マクガイヤ「紳士協定」)が食い入るように見つめていた。だが、カメラは場内からゆっくりと天井を映し出す。二階の部屋で若い娘が身支度をしていた。クローゼットの奥には暗い目が潜んでいた。その瞳の大写しに映る娘の姿。彼女が上着を着ようと両腕を上げた瞬間、その手は痙攣し虚空を掴む。
【 The Spiral Staircase 】
監督:ロバート・シオドマク (1946年・米)
原作:エセル・リナ・ホワイト
脚色:メル・ディネリ 撮影:ニコラス・ミュスラカ
出演:ドロシー・マクガイア、ジョージ・ブレント、エセル・バリモア、ロンダ・フレミング

「らせん階段」は、心理サスペンスの傑作として知られる。原作は「バルカン超特急」のE・L・ホワイト。監督はバート・ランカスターとエヴァ・ガードナー主演「殺人者」(46年)のロバート・シオドマク。誰もが「レベッカ」「汚名」「サイコ」等を連想しようが、ヒッチコックの塁を摩す映画とするまでもないのだろう。ヒッチコック、1989年生まれ、シオドマク、1900年。
界隈で連続殺人事件が起きていた。被害者はいずれも体に障害を持った女性だった。急ぎヘレンも帰路に着くが、にわかに雲行きが怪しくなる。尾行されている気配もした。ヘレンは棒片で柵を鳴らしながら歩く。両親を火事で亡くして以来、彼女は声を失っていた。
寝たきりの老女主人(バリモア)の古い屋敷が舞台だ。見るからに冷酷そうな雰囲気の老婆だ。だが、小間使いのヘレンを愛していた。不穏を察知して、彼女に邸を去るように促す。継子の生物学者ウォーレン教授(ブレント)が反対する。冷笑的なその義弟、美人秘書(フレミング)、庭師・・・犯人の目星はすぐにつくが、ミステリーの手続きを踏まえた人物描写は怠らない。
ウォーレン教授の風貌から「エル」を、邸内に飾られた蝶の標本から「
嵐が丘」をといった具合に、取り留めもなくブニュエル映画が脳裏をかすめる。だが、映画は禍々しいサスペンスの醸成にのみ心血を注ぐ。嵐の一夜、螺旋階段、地下室、鏡、蝋燭といった定石通りの道具立てで物語を紡ぎ出す。
ヘレンは美人秘書と共に屋敷を去る決意をする。ところが、地下室に荷物を取りに行った秘書が戻ってこない。様子を見に行った彼女の前に義弟が現れた。やはり、そうだったのだ。ヘレンは咄嗟の機転で義弟を部屋に閉じ込める。かねて彼女に好意を寄せる青年医師に助けを求めるべく受話器を取る。声が出ないことに気付く。
可憐なドロシー・マクガイヤが身を震わせる。「
暗くなるまで待って」のオードリーも参照したかもしれない。総毛立つほどの恐怖感だとは云わない。ただ、姿の見えない犯人の目と化したカメラの動きと、不気味な音楽、そして光と影の配合に、映画ならではの息使いを感じる。古典的な技法とモノクロ映像のロマンチシズムを堪能する。今の時代には古色を帯びて映るのか。
かつて映画は大人の娯楽だったが、1978年の「スター・ウォーズ」あたりから子供向けのものが主流になった。過日、そんな内容の新聞記事を読んだ。「今の作り手は、観客を退屈させてはいけないという強迫観念に捕らわれている。VFXを多用し、めまぐるしくカットを割り、次から次へと新しい映像を見せようとする」(大高宏雄)。シオドマクの映画などを見ると、ハリウッドが忘れたものがよく分かる。
【 Cry of the City 】
監督:ロバート・シオドマク (1949年・米)
原作:ヘンリー・エドワード・ヘルセス 脚本:リチャード・マーフィー
撮影:ロイド・エイハーン 音楽:アルフレッド・ニューマン
出演:ヴィクター・マチュア、リチャード・コンテ、シェリー・ウィンター、デブラ・パジェット、ホープ・エマーソン

「都会の叫び」は、格別評価が高いわけではあるまい。当時流行したというフィルム・ノワールの平凡な一本なのだろう。それでも、どこから眺めても贅肉がなく、均整の取れた構成と簡勁な筆致がいい。B級映画の手本のような仕上がりではないか。
警官との銃撃戦で深手を負ったならず者のマーチン(コンテ)が、病床に横たわっている。キャンデラ刑事(マチュア)が見守るなか、ナイルズという弁護士が別件の老女殺しの自白を迫った。マーチンは唾を吐きかける。新たな疑惑の浮上で、キャンデラは老女殺しの捜査に乗り出す。男女二人組の犯行という線が浮かび、彼はマーチンの情婦の割り出しにかかる。
ナイルズがマーチンを再訪する場面で、観客にはことの顛末が明かされる。老女殺しの罪を被ってくれるなら、莫大な見返りを保証しよう。マーチンはそんな悪徳弁護士の誘いを再びはねつける。ナイルズは逆恨みした。お前の情婦を陥れてやる。マーチンは、情婦どころかまだあどけない恋人(パジェット「折れた矢」)を魔の手から守るために脱獄する。
配役が渋い。刑事に「サムソンとデリラ」のヴィクター・マチュア、ならず者に「オーシャンと11人の仲間」のリチャード・コンテ。映画の勘所も両者の境遇にある。二人は貧しいイタリア移民街に育ったの幼馴染なのだ。だが、劇的たりうる友情と職務をめぐる葛藤といった主題に、ことさら焦点が当たるわけではない。B級映画の倫理は物語の叙述に徹すことを旨とする。画面に描かれるのは善と悪に袂を分かった二人の消息とその周囲だけだ。息子の非行を嘆く母や兄を英雄視する弟の造形に血が通っている。あるいは、夜の都会にうごめく怪しげな連中。
さり気なく趣向を凝らした等身大の暴力描写も、かえって生々しい。例えば、マーチンがナイルズに逆襲する場面。ならず者は力任せに椅子の背もたれごと弁護士を刺し殺す。宝石を懐に押し込んで退散しようとする。物音に振り返る。床に落ちた遺体がこちらを睨んでいた。惰性で椅子はまだゆっくりと回転している。志賀直哉が暴力を撮ったかのような即物的な表現に身震いする。それに輪をかけて恐ろしいのが、老女殺しの犯人の片割れである女マッサージ師(エマーソン)だ。ジョージ・C・スコットの顔を持つ怪物のような大女が、マーチンの体をほぐす手をそっと首へ回す・・・。
型通りの結末が胸を打つ。法の名の下において、マーチンの海外逃亡を許すわけにはいかない。瀕死のキャンデラは渾身の力を振り絞って銃の引き金を引く。教会の前の通りを縦に捉えた構図の奥で、マーチンの体は崩れる。弟は間に合わなかった。英雄の哀れな末路に己の非を悟る。
映画のリアリティを保証するのは、人物の心理の襞を明るみに出す作者の眼光ではなく、安易な叙情の浸透をどこまでも禁じながら、雨に濡れた夜の舗道の美しさを浮かび上がらせる照明の方なのかもしれない。悪は滅んで、善は生き延びた。それでも、何が変わったのか。
フィルム・ノワールとは、車のヘッドライトが雨に煙る夜の都市と探偵の孤独を照らし出す人間不信と社会腐敗の寓話である。探偵は過去に傷を負った覚えがある。だが、たとえ事件が解決しても、ただ一個の犯罪が一個の死をもって償われたに過ぎず、消費と幸福を等号で結ぶ都市のシステムそのものの改変には及ばない。探偵の心は晴れない。
(加藤幹郎)
加藤によれば、フィルム・ノワール流行の背景には、ナチスの迫害を逃れて渡米したユダヤ人作家らの存在がある。もちろん、シオドマクもその一人だ。
■ ジャンル映画、モノクローム、ハリウッド ■
■ 追記