イタリア・ポー河畔、街道沿いの小さな食堂。店を切り盛りしながら、女は物憂げに口ずさんでいた。「可憐な花、大輪の花、恋は美しい。愛のない人生に何の意味があるの」。女は一回り年嵩の夫との生活に倦んでいた。そこへ男が現れた。無一文の流れ者だが、筋骨の逞しい(肩にも毛の生えた)若い男だ。住み込みで働くようになる。
【 Ossessione 】

監督:ルキノ・ヴィスコンティ (42年・伊)
原作:ジェームズ・M・ケイン
脚本:ジュゼッペ・デ・サンティス、ジャンニ・プッチーニ
ルキノ・ヴィスコンティ他
撮影:アルド・トンティ、ドメニコ・スカラ
音楽:ジョゼッペ・ロサーティ
出演:マッシモ・ジロッティ、クララ・カラマイ、ジュアン・デ・ランダ
二人は一目で情欲を掻き立てられた。夫の目を盗んでは情事にふける。だが、こんな生活が長続きするはずもない。男(ジロッティ)は駆け落ちを誘う。女(カラマイ)は安定した暮らしを捨てられない。折しも夫が子供を望んだ。追い詰められた。二人は物陰に隠れて唇を求め合う。「少しの辛抱よ」。それはあうんの呼吸だった。映画は、夫殺しの場面を描かない。
原作はハードボイルドの古典だが、「地獄に堕ちた勇者ども」「ベニスに死す」の後年の巨匠が処女作として三面記事のような話を手掛けたというのが面白い。ネオ・レアリスモの先駆とされる。当時のルキノ・ヴィスコンティ監督の鼻息も荒い。「ロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」は本作の影響から生まれた」。寂寞とした風土の中に赤裸に描かれた男と女の欲望。その衝撃はなまなかではなかったのか、当局のの忌避に触れて公開を禁じられたという。ファシスト政権下で、こうした題材を取り上げたというのがネオ・レアリスモの精神というものか。
近年、邦画界でも映画のリメイクが相次いだ。企画不足という状況のなせるわざだろうが、黒澤明や清水宏に挑戦するという心意気は悪くない。だが前作を見ている者にとっては、少なからず新機軸を打ち出してもらわないと困る。先日見た「犬神家の人々」のリメイク版はあんまりだった。市川崑監督は常々「映画は光と影である」と云っていたそうだが、その影が消えていた。石坂浩二の顔には「犯人を知っているのに・・・」と書かれていたし、加藤武の「よし、分かった!」の手の動きには切れがなかった。大体、老いを感じさせるばかりのコメディリリーフだなんて見るのも辛い。そして禍々しい土俗的な雰囲気もどこへやら、湖の映像はすっかり絵葉書になっていた。
山田宏一著「美女と犯罪」を読んで、興味を持ったのがティ・ガーネット監督作(46年・米)だ。冒頭のラナ・ターナーが登場する場面から目を引いた。店に入ったジョン・ガーフィールドの足元に口紅が転がってくる。男の視線となったカメラが女の姿を下から写し出す。ハイヒール、すらりと伸びた脚、ホットパンツ、腹部が露出したトップ、頭のターバン。山田によれば、これは典型的なヴァンプの装いだと云う。そして、全ては純白なのだ。

「死の天使は白いドレスに包まれたブロンドの美女なのである。悪魔のようにどす黒い心を秘めた肉体を天使のように清らかで美しく罪なきイメージに装うという、単純といえば単純ながら巧妙な視覚的効果でハリウッドのプロダクション・コード(映画製作倫理規定)の検閲の目を欺くための方法であった」
「ヴァンプ(淫婦)やファム・ファタール(妖婦)というのは唇が薄く、頬がこけ、骨ばった体つきで、セダ・バラやニタ・ナルディやミュジドラ以来、黒いドレスやボディスーツに身を包んだ黒髪の女というのが通り相場だった」
(前掲書)
「俺を愛しているんだな。ならば方法は一つだ」。最初に不穏なことを口にしたのは男の方だった。だが相手は、事をし終えた後に男などに用はないと云わんばかりに口紅を引くような女だ。あくまでも男は翻弄され、ラナ・ターナーの冷たく妖しいエロティシズムが犯罪を導く。そんな夫殺しへと至る前半はフィルム・ノワールならではの背筋がぞくぞくするような背徳的な魅力に満ちていたが、後半は二人の人物像の輪郭がぼやけて、尻すぼみになった印象がある。
ラナ・ターナーと云えば、娘が彼女の情夫を包丁で刺し殺したスキャンダラスな事件で世間を騒然とさせたそうだが、この事件によって落ち目だった女優は再び注目を集め、以降「母もの」のスターとして返り咲く。テレビ放映で「青春物語」(57年)や「悲しみは空の彼方に」(59年)などを見ているが、ちょっと忘れがたいのが「母の旅路」(65年)だ。なぜって物語が半端ではない。
名家の当主に見初められ結婚した主人公が、夫が留守がちの淋しさからプレイボーイの男と浮気する。親子三人水入らずで暮らせるめどがついて、彼女は不倫の関係を清算しようとするが、相手が承服しない。話がこじれて揉み合ううちに誤って男を殺してしまう。かねて嫁の態度を訝っていた姑は醜聞の発覚を恐れ、溺死を装って彼女を追放する。別人として世界を放浪することを余儀なくされた主人公は酒と男に溺れる。あげく、彼女の秘密を知って脅迫しようとした悪党を殺して逮捕される。最愛の息子に累が及ぶのを恐れた母ゆえの犯行だったが、その裁判の官選弁護人として現れたのはあろうことかその息子だった・・・・・。
一昔前の昼メロにありそうな絵に描いたような通俗メロドラマだが、落魄するラナ・ターナーの迫真の演技は見ものだった。当時は件の事件のことも艶聞が絶えなかった私生活のことも知らなかったが、スターのイメージを貪欲に食い尽くそうとするハリウッドの胃袋の逞しさには感心する。
【 The Postman Always Rings Twice 】
監督:ボブ・ラフェルソン (81年・米)
脚本:デイヴィッド・マメット
撮影:スヴェン・ニクヴィスト 音楽:マイケル・スモール
出演:ジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラング、
ジョン・コリコス、アンジェリカ・ヒューストン
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は計4回リメイクされているが、最も知られているのがボブ・ラファエルソン監督作だろう。いつも口を半開きにし「全身が発情しているような」ジェシカ・ラングと粘着質のジャック・ニコルソンによる、台所での粉まみれのファックシーンが評判を呼んだ。
「二人でいれば何とかなる」
「私はあなたのものよ・・・二人きりなら」
「どういうことだ?」
「善悪なんかどうでもいい」
「死刑になるぞ・・・」
犯罪に手を染める覚悟は卒然として固まる。女は夫との生活に不満を漏らすこともなかった。もはや周知の物語だから心の内の絵解きなどいらないということか、映画は即物的な描写に徹する。例えば、夫の死体を乗せた車を崖から突き落とした後、二人が交通事故を装うために互いの体を痛めつける場面がある。血だらけになって倒れた女は、だがそこにSM的な興奮を覚える。荒い息のままゆっくりと股を開く。
夫を殺害した後の男と女の反応の違いを丹念に描いたのはヴィスコンティだ。男は罪の意識に苛まれる。女はひたすら愛の成就を見据える。夫が生命保険に入っていた事実の発覚もあり、愛憎の糸は複雑にもつれる。街に出て別の女と関係を結んだ男と、尾行によってそれを知った女。「私と帰らないなら、覚悟して!」と往来で平手打ちを食わせる。通行人が集まって来る俯瞰ショットに息を飲む。それが現代的な流儀と云うものか、ラファエルソン版は決して心理の襞には立ち入らなかった。だが、あの皮肉な結末から、運転中はいちゃいちゃしてはいけないという間の抜けた教訓だけしか読み取れなかった者が現れたのはそのせいではなかったか。
露骨な性の表現が許されなかった時代があった。ゆえに、映画的な表現に意を凝らす。山田宏一も書いていたが、そんな工夫が見る者に豊かなイメージを喚起してきたのが映画史の一面でもある。その点、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」という原題も示唆に富む。運命の悪戯は一度目の偽りの交通事故は見逃し、二度目の不慮の交通事故で罪を問う。
Here they come. Father McConnell says prayers help. If you've got this far, send up one for me, and Cora, and make it that we're together , wherever it is.
ついにこの瞬間が来た。マコネル神父は祈れば救われると云う。あなたもここまで読んでくれたのなら、俺と彼女のために祈ってくれ。どんな世界であろうと、俺たちが一緒にいられるように。
原作の最後の一節だ。小説の世界を最も伝えていたのはどの作品か。訳し方ひとつで雰囲気はがらりと変わる。原作に忠実であることが映画の出来を保証するものでもない。ラファエルソン版は「マクベス」のように血塗られたジェシカ・ラングの手のアップで終わった。ガーネット版では車の助手席で崩れ落ちたラナ・ターナーの手から口紅がこぼれ落ちた。そして、ヴィスコンティ版は男の顔のアップで幕を閉じたか。現代的な扇情描写とハリウッドの作法と正統的なリアリズムと、それぞれに表情が違う。リメイク映画を見る醍醐味ではある。
■ 予告編 :
ティ・ガーネット版 ■ 映画史的な、美女と犯罪 ■